波宜亭

少年の日は物に感ぜしや
われは波宜亭の二階によりて
かなしき情欲の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや
いにしへの日には鉛筆もて
欄干にさへ記せし名なり。

        萩原朔太郎
          『純情小曲集』より


 謎の創業者、山本郷樹を追う

朔太郎が通い、室生犀星が朔太郎とともに訪れ、
草野心平が建物の跡を訪れ偲んだ――。
そんな多くの伝説を残した波宜亭(正しくは坡宜亭)を
創業した山本郷樹とはどんな人物なのか。

 波宜亭を創業した山本郷樹は、前橋に代々住む山本家の九代目で、元前橋藩士だった。目立つ公的な役職に就くことがなかったこともあり、地元でも今、その名を知る人はほとんどいない。しかし、山本家に残された郷樹の所持品、文書類を目の当たりにすると、これほど豊かな精神生活を送った人が、なぜ無名のままできたのか、と不思議に思えてくる。



波宜亭の創業者
山本郷樹の自画像
書画にいそしむ
多趣味の風流人

 創業者のひ孫の山本和彦さん(七二歳)は、波宜亭のあった中央児童遊園のすぐ近くに現在も住んでいる。郷樹を直接は知らないが、山本家には、波宜亭にかかわる数多くの品が残されていて、自然に、波宜亭や創業者のことに関心を寄せるようになったという。
 山本さんによると、郷樹は一八三六(天保七)年、神明町一番地(現前橋市大手町三丁目)で生まれた。後に、詩人の山村暮鳥が群馬町から通ったことでも知られる前橋聖マツテア教会が建てられた場所だった。川越に住む、りやうと結婚。一九〇三(明治三十六)年、六十六歳で亡くなるまで、ずっと前橋に暮らした。
 郷樹はどんな人物だったのか。山本さんの妻、巳沙子さんは、姑で郷樹の孫にあたるすゞさん(一八九一―一九七三)から、郷樹のことを何度も聞いたという。
 郷樹が亡くなったのはすゞさんが十二歳の時。一人だけの孫娘だったこともあり、すゞさんは郷樹に相当かわいがられたらしい。
 「おばあさんは、郷樹さんを本当に尊敬していました」と言う巳沙子さんがすゞさんから聞いた話によると、郷樹は、旅に出ていることが多く、家にいる時は、いつも机に向かって絵を描き、書道にいそしんでいた。また、波宜亭ではよく句会が開かれ、郷樹に似た人たちがたくさん集まってきたという。
 『上毛古俳家全集』(樫村霞道著、一九五〇年刊)には、山本空子(郷樹の俳号)についてこんな記述がある。
 「(略)性至って磊落、細形にして背高く、常に総髪長髯を貯へ、真に貴公子然たる風采であった。若きより俳諧を好み、庵号を風月坊といひ、広く名俳と交はり、殊に連歌に達しまたよく画をかき、更に書画骨董の鑑識あり、華道、香道にも堪能であるという頗る多趣味の人であった(略)」

残る克明な情報メモ
 衣食住全般に関心

 こうした紹介を裏付ける資料が、今も山本家に残されている。
 谷文兆ら著名な画家の作品をはじめとする書画コレクションや、歌人、俳人らの短冊、自ら狩野派の画家の作品を模写した絵を四冊にまとめた「暁斎画談」など、おびただしい量の作品が保存されている。
 これらと並んで、郷樹の人となりを最もよく表していると思われるのが、克明に記されたメモ類である。
 札所参りの記録、旅先からの年賀状、書き込みをした旅行地図など、旅関係の文書をはじめ、絵画、書道、陶芸から、植物、料理、建築などに関する情報メモを文と絵で構成した「覚書」もあり、郷樹の関心は、学芸に限らず、衣食住全般にわたっていたことがわかる。
 山本家には、さらに、波宜亭で使われていた衝立、置床、店の落款なども残されている。落款は三種類あり、いずれも木製。郷樹自身の作とみられ、「敷島名物」「萩の餅」「前橋市 東照宮筋向ヒ 坡宜亭」と刻まれている。
 これらと、メモの一部が、今回、波宜亭の実像を探るために、大きな役割を担うことになった。波宜亭は、そんな、当時の前橋でも屈指の風流人であった郷樹が、自らの趣味を前面に出してつくった店だったに違いない。
 郷樹がいつ、どんな経緯で波宜亭を創業したのかわかっていないが、山本さんによれば、廃藩置県に伴い、前橋城の空堀だったこの土地の払い下げを受け、店を始めたようだ。屋号は、郷樹が好きだった萩の花と、空堀の土手を意味する「坡」をかけて決めたと思われる。この名前の付け方を見ても、郷樹の「遊びの精神」が伝わってくる。
 山本さん宅には、明治十四年五月二十一日付の「日本鉄道会社出資者名簿」がある。そこに、五千円出資者として郷樹の名が記されている。初代市長の下村善太郎と同じ額だった。このことから、当時の山本家は、経済的にも恵まれていたことがわかる。
 元前橋市立図書館長の渋谷国忠さん(故人)は、一九六六年二月に発表した「波宜亭縁起―山本すゞ聞書、その他―」(『萩原朔太郎研究会会報』第六号)で、郷樹についてこう書いている。
 「山本郷樹はなかなか興味ある人物である(略)風流の道に遊んでいた点では、郷樹はいくらか朔太郎に似たような人であった」

 山本さんの姉で、前橋市岩神町二丁目に住む山下幸子さん(八六歳)は、小学校五年生の時まで、波宜亭に住んでいて、店の様子をはっきりと覚えているという。
 二階廊下の手すりと柱には、たくさんの落書きや、刃物で彫った跡があって、幸子さんもここに名前を書いたという。
 詩「波宜亭」の「欄干にさへ記せし名なり」と『愛憐詩篇ノート』の短歌「波宜亭の柱に書きし恋の歌」の「欄干」「柱」は、この二階の手すりと柱をさしているのだろう。青年時代の朔太郎がここにたたずみ、もの思いにふけっている姿が想像できる。

 菩提寺である前橋市三河町の正幸寺にある墓石には、郷樹の次のような辞世の句が彫られている。
 萩の戸や 露の命のおき処

残されていた郷樹の所持品。
郷樹の蔵書、メモ類、軸物など

再現された波宜亭