上州風5
<特集>「今伝えたい 新近代史」
  ■富岡一番地「トミオカ セイシ ジャウ
  ■碓氷線 鉄路 峠を越える
  ■もしもしかめよ 花のおか 石原和三郎と勢多東村・花輪小

<特集:碓氷線 「鉄路 峠を越える」より 一部抜粋>

隧道番の家族 ずいどうばんのかぞく
〜近代日本を支えた鉄道人魂の系譜〜

●20ケ所に配置された隧道番
 失われた鉄路、碓氷線とともに人々の記憶の中から消え去ろうとしている鉄道人たちの物語の一編。隧道番。
 この名を聞いて、今、どれだけの人が仕事の内容を答えることができるだろうか。トンネル番とも呼ばれたこの職業、明治期から大正期にかけて、碓氷線に蒸気機関車が走っていた時代には欠かすことのできない重要な仕事であった。松井田トンネル跡
 一八九三(明治二十六)年四月一日に開業した碓氷線。当時の蒸気機関車は距離にしてわずか一一・二キロの横川−軽井沢間を通過するのに一時間十五分もかかった。その理由は一〇〇〇分の六六・七という急勾配。蒸気機関車は碓氷峠の斜面を黒煙をもうもうと吐き続けながら、登っていったのだ。
もちろんトンネル内においても機関車は黒煙を吐き続けるため、トンネル内は大量の煤煙と排気蒸気の熱気でいっぱいになってしまう。加えてトンネル内では、空気が低いところから高いところへと流れるので、峠の坂を登る列車の場合、煙突の中を走り抜ける状態となる。煤煙は速度の遅い列車より先に出口へと流れていくので、運転する機関士は手ぬぐいで鼻と口を覆い、さらに頭部を床まで低く下げ、手を伸ばして運転しなければならない。まさに窒息寸前、生死を賭けた運転である。あまりに危険の多い区間のため、碓氷線の峠越えをする機関士には一往復ごとに危険手当てが支給された。機関士たちはこの手当てを「煙飲料」と呼んでいたという。
 鉄道庁では、トンネル内での煤煙が乗客にまで危険が及ぶ可能性があるため、英国人F.H.トレブィシックの考案による排煙幕の設置を試みた。これはトンネル入口に隧道番を配置し、列車がトンネルに入り切ると、すぐに大きな布でトンネルを遮断することでトンネル内への外気の侵入を防ぐというもの。布幕で入口を塞ぐことにより列車の最後尾の空間が真空に近い状態となり、煤煙はそこに滞留するという仕組みである。線路跡
 排煙幕が設置されたのは二十六のトンネルのうち、二十ケ所。トンネル入口脇には官舎が建てられ、そこに隧道番とその家族が住込んだ。配置内容はトンネル一か所に隧道番二名が配置され、一日交代で一人一昼夜勤務という体制だった。隧道番の総人数は四十名ほどだったという。


●憧れの官鉄 隧道番に採用された父・長太郎
 高橋正さんは現在八十六歳。一九三二(昭和七)年、旧国鉄に入社。横川機関区勤務からスタートし、横川駅助役、軽井沢駅長など勤め上げた、旧国鉄とともに人生を歩んできた鉄道人である。正さんが鉄道人となったのは、何よりも父・長太郎さんの影響によるものだった。
 一八八九(明治二十二)年、碓氷線の隧道番に採用され、一生を碓氷線とともに生きた鉄道人であった長太郎さんは群馬県との県境近く、長野県戸沢村に生まれた。当時、官営鉄道で働くということは庶民の憧れであったという。長太郎さんは時代の花形ともいえる職場への就職を夢見、営林署の仕事をしながら機会を待った。そして希望職種ではなかったものの晴れて官鉄への就職を果たしたのである。
 「父は一勤日給二十九銭という辞令を貰って、うれしくなって故郷の友だちに見せにいったんです。そうしたら、その辞令をどこかに無くしてしまったらしいんです…よほどうれしくて舞い上がっていたんでしょうね」と正さん。トンネルの外から淡い陽が差し込む
 しかし時代の先端を行くイメージとは裏腹に就業内容は相当過酷なものだったようだ。トンネル一か所につき二人の隧道番が交代で職務に当たったとはいえ、昼夜ぶっ通しの勤務。また一人が病気で寝込んだり、冠婚葬祭などで出かけてしまった場合は幾日でも一人が一睡もせずに隧道番を勤めなければならないのだ。また、幕引き自体もかなり難しい作業だった。列車の最後尾がトンネルに入ったと同時に幕を引かなくてはならず、そのタイミングを逃すと列車の風圧で幕が吸い込まれ、締まらなくなったり、人間が引きずられてしまい宙づり状態になってしまうということあったらしい。さらに冬になると雪で幕が凍りつき、締まらなくなってしまうこともしばしばあったという。
 このような厳しい作業の中、一九一一(明治四十四)年から七年間で四人もの殉職者が出ている。まさに煤煙の中を運転する機関士と同様、隧道番も命懸けの仕事であったのだ。
 正さんの話によると長太郎さんは、採用後、すぐに一号トンネルの官舎に入り、一九一二(大正元)年に結婚。正さんをもうけた後、二号トンネル入口の官舎へ移った。正さんの人生はまさに二号トンネルから始まったのだ。

●トンネルを通って、毎日水汲み
 幼少の正さんの目に写った隧道番の家族の暮らしぶりとはどんなものだったのだろうか。トンネル跡
 「私たちの家族が暮らしていた二号トンネルの家は水道はもちろん、付近には水汲み場もなく、遠くの泉から母親が水を毎日汲んでくるんです。百メートルほどの二号トンネルを通って毎日重い水を運ぶ母がかわいそうで、まだ小さかった私もまねごとのように担いで運んだこともありました」
 また人里離れた山奥だけに学校への通学も大変だった。徒歩では通学できないため、隧道番の子供たちや軽井沢機関区の子供たちは毎日、貨物列車の最後尾に連結された「ピフ」という緩急車に乗せてもらい、坂本の小学校や高崎の高校へ通った。また当時は家に電気が通っていなかったので、長太郎さんが仕事で使っていたカーバイトランプの明りで勉強していたこともしばしばあったという。現在の子供たちには想像もできない暮らしであろう。
 官舎は正さんの記憶によると八畳の隧道番詰所と六畳の畳の間、四畳半の板の間、台所、便所といった間取りだったという。詰所には当時、まだめずらしかった電話があった。
 「電池式のもので、符号呼びなんです。ズーチャン、ズーチャンというならどこでという。その符号を自分で回すと、相手の電話がリーンと鳴るというものなんです。たまに峠越えをする浮浪者が家に物乞いにくるんですけど、そういう時、母親はどこかに電話をかけるふりをし、もうすぐ父が帰ってくるような話をして、追い払っていましたね。あの頃、村で電話を使えた女性もめずらしかったんじゃないですか」
 電話のある真新しい官舎。そこに住むことになった長太郎さんはきれいな便所を使うのが勿体ないといい、家の外に自分で便所をつくり、官舎の床下ではにわとりを飼っていた、そんな微笑ましい暮らしぶりも正さんは聞かせてくれた。トンネルには繊細な煉瓦装飾も施されていた
 現在の生活感覚からすれば、けっして住み良い住環境とはいい難い、二号トンネル脇の家。しかし、官鉄職員という憧れの仕事に就いたというよろこびと相まって、その官舎の存在は長太郎さんにとって、とても眩しいものだったのかもしれない。


●過酷な日々を支えた鉄道人としての「気概」「プライド」
 列車が電化されれば当然、隧道番はいらなくなる。一九二一(大正十)年、碓氷線が完全電化されると碓氷線特別巡回制度が発足した。長太郎さんは深夜通過するわずかな貨物専用の蒸気機関車のための幕引の傍ら、巡回員、エントラ番として働きはじめる。この仕事は事故防止のため、アプト式レールを巡回する仕事で、隧道番同様、一昼夜続けての仕事。一日数回、定期的に線路を見回り、ラックレールの歯の折れや石や木材が落ちていないかなどを点検するのである。決まった時間に一日数回、点検しなければならないので、けっして休むことはできなかったという。かつて隧道番が必死に守った鉄道が今もひっそりとたたずむ
 「父が職場の仲間に誘われ、秋の紅葉会か何かで酒を飲んでしまった時のこと、家に帰ってきたらとても巡回ができる状態ではないというので、高校生だった私が父を担いで回ったこともありました」と正さん。さらに「ラックレールの交換を急ぐ時には母親も父に従って作業を手伝っていた」とも。家族ぐるみで碓氷線に関わっていたのである。
 物心つく前から、人里離れた山奥で昼夜問わず黙々と働きつづけた長太郎さんの姿を見、父親の仕事を手伝ってきた正さん。すでに鉄道の仕事の厳しさを十分知り尽くしていた彼が、それでも父親と同じ道を選択した理由とはいったい何だったのだろうか。
 それはあの時代、末端ではあるけれども確かに近代日本の礎を支えている、という鉄道人としての「気概」、「プライド」を父親の働く姿に常に感じていたからではないだろうか。若き日の正さんにとって、鉄道は生涯を賭けるにふさわしい仕事だったのだ。
 取材時、正さんの口から語られる言葉のひとつひとつに、明治から昭和にかけて日本の鉄道文化を支えてきた男たちの、大きな志が受け継がれているような気がした。